西岬ってこんなとこ

「西岬」の由来

「西岬」の命名は、明治政府誕生後の明治22年で、地方自治体として「西岬村」が整備される際のもの。 館山市の西側に大きく突き出た岬のような地形から名付けられました。昭和29年に館山市に併合されてからは、市内の各大字をまとめる地域名としてのみ残り、住所表記には使用されていません。しかしながら、「西岬」のコミュニティ意識は今でも強く、館山市の中でも特色ある個性豊かな地域といえます。

西岬には、「香こうやつ」 「塩見しおみ」 「浜田はまだ」 「早物はやぶつ」 「見物けんぶつ」 「加賀名かがな」 「波左間はさま」 「坂田ばんだ」 「洲崎すのさき」 「西川名にしかわな」 「伊戸いと」 「坂足さかだる」 「小沼こぬま」 「坂井さかい」 の14の地区があります。

西岬の地理 陸の孤島、海運の要衝

南房総(安房/房州)は、西を東京湾、東と南を太平洋に囲まれ、さらに、北側は鋸山~清澄山系の山々に蓋をされるかっこうから「陸の孤島」ともいわれる陸路の不便の一方、古来から海運が発達し、海洋性の文化が根付く地域性を持っています。 南房総は、アメリカ大陸まで続く黒潮が陸地に接触する国内最後のポイントであり、古代からあったと考えられる「黒潮」の文化圏の影響が地名等にも多く残ります。 そんな南房総の中でも、西岬の洲崎は、三浦半島南端部と対をなして東京湾の門となる地形から、古くからの海運交通の要衝となっていました。

近代以前は、陸路より遥かに優れた流通性を持つ海運が房州の生命線であり、豊かな交流・交易を支えてきました。明治時代には、東京や神奈川との間に数多くの汽船(フェリー)が就航し、房州への旅路を賑わせました。 その後の鉄道の開通でその数は減り、アクアラインの開通した現在では、三浦半島久里浜港~房総半島金谷港間を結ぶ「東京湾フェリー」だけが唯一残る常時運航の航路となりましたが、今も重要な交通手段として利用され続けています。

アクアラインと高速道路(館山道・富津館山自動車道路)の開通した今は、都心から2時間で訪れられる地域となり、これまでよりも、より身近なレジャースポットとして認知されています。

房総半島の南端部西側の西岬地区

西岬の産業 -黒潮のゆたかな恩恵をうける漁業と花卉栽培-

黒潮と江戸前、双方の恵みをうける西岬の漁業

館山市内には11の漁港がありますが、そのうちの8つは西岬地区にあり、大半をしめています。西岬での漁はおもに「だいぼ(大謀)※1」ともよばれる定置網漁で行われ、黒潮の潮流により、数百種類ともいわれる魚種が水揚げされます。その他、テングサやヒジキなど海藻類の採集漁、イセエビやアワビ、サザエなどの高級魚介類も刺網漁や素潜り漁で数多く水揚げされます。

江戸時代には、巨大な江戸の町で商売をするため、黒潮のネットワークで繋がる、九州・四国・紀伊・伊豆ほか、各地の漁船が、館山を経由して魚を送り込んでいました。 現在でも宮崎や高知のカツオ船が館山市の漁港で餌となるイワシを大量に仕入れていきます。

江戸時代から明治期にかけては、市内の布良漁港でのマグロ漁が隆盛をきわめ、大量のマグロを江戸に送り届けていました。 江戸/東京までの輸送には、黒船のペリー提督も絶賛した快速船「押送船※2(オショクリ船)」が使われ、陸路で4日かかる道のりを、わずか10時間で運んでいたといわれています。 魚介類のほか、穀物・野菜・薪炭などの食料や生活物資、その他、房州うちわ(江戸うちわ)や房州びわ等の名産品等、江戸/東京へ物資を送る供給地・経由地として発展しました。

※1、西岬地区伊戸には、新鮮な魚介類を扱う、「海の駅 伊戸だいぼ工房」があります。
※2、押送船は、渚の駅たてやま内の館山市立博物館「渚の博物館」に展示されています。

暖流黒潮が育てる西岬の花

西岬での花卉栽培は、太平洋側の海岸がある南側の地域で盛んです。暖流黒潮がもたらす海水温と強い風が、冬季の花卉栽培を妨げる霜の発生を防いでくれるためです。 花卉栽培は、平地の少ない場所でも栽培できることから、この地域を助ける換金作物として農家に恵みを与えてきました。

現在では、観賞用ヒマワリの栽培が盛んで、花束や花瓶にいけるのにも利用しやすい、こぶりな品種が育てられています。季節感たっぷりのかわいい花は、花卉市場でも大変な人気を博しています。

海運の要所である洲埼灯台のある岬は、かつてマーガレットの花が咲き誇っていたことから、「マーガレット岬」の名で親しまれました。その名の由来は、昭和34年に皇室の秩父宮妃殿下がここを訪れ、そう呼んだことによるそうです。その後、残念ながらマーガレット畑は姿を消してしまいましたが、現在地元の有志により復興活動(洲崎マーガレット岬の会)も行われており、復活の日も近いようです。

なぜ洲埼灯台はマーガレット岬と呼ばれているの?
JA安房花卉部西岬支部共撰部会

信仰と伝承 -西岬の類まれなるパワースポット

神代の時代に由緒を持ち、頼朝の悲願を叶えた「洲崎神社」

洲崎神社は、神話の時代に大和朝廷の命で、房総半島を開拓したという「天富命」が率いる忌部氏の一派に縁のある神社で、岩戸開きの神話にも登場する忌部氏の祖「天太玉命(アメノフトダマノミコト)」の后神、「天比理乃咩命(アメノヒリノメノミコト/別名スサキの神)」が祀られています。

この神社は、東京湾の行き来する船乗りからの信仰が厚く、三浦半島での戦いに敗れ、房総半島で兵をあつめ再起し幕府設立を果たした源頼朝が願掛けをした場所としても知られます。 東京湾の門をなす反対側の三浦半島「安房口神社」には、この神社にある「神石」と対になるもうひとつの神石があったり(竜宮から洲崎大明神への奉納品とのいわれがあります)、その他、三浦半島には洲崎との縁をしめす地名や神社が多くあることから、東京湾の門であるこの地の重要性を力強く物語っています。また、神田明神、品川神社、木場の洲崎神社、横浜の洲崎神社等、都内や神奈川県の神社にも洲崎神社の神様が勧請されており、その信仰は東京湾内全体にも及ぶものでした。 さらに近年には、海の安全のためダイビングショップが設置した、洲崎神社の分社としての「海底神社」もあり、歴史の進んだ現代にあってもなお、海との深いつながりを示し続けています。

興味深い独特な神事として、海上の安全と大漁・家内安全を祈願し、笹の枝で熱湯を振りまく「湯立神事」、海の安全を司る「鹿島神社」から伝わったものと考えられる、女児によって踊られる県無形民俗文化財「洲崎踊り(みのこ踊り)」があります。

洲崎神社の別当寺となる「養老寺」には、修験道のスーパーヒーロー「役行者(えんのぎょうじゃ)」が開いたとする石窟内のお堂と、同じく同氏が掘り当てたとされる獨鈷水(湧き水)があり、海洋信仰のみならず、山岳信仰も併せ持っていました。

海からやってきた神を祀る巨石遺跡の「ナタギリ神社」

見物にある「海南刀切神社」と浜田にある「船越鉈切神社」は、間に道路が通っていますが、もともとひとつの神社で、信仰の対象として、前者に神様が一刀のもとに切ったとする2つに裂けた「巨石」、後者に、縄文時代の遺物も発掘された海食洞穴があります。海に面した2つの神社は、縄文以前の時代から、海洋民にとっての最も重要な基地であったにちがいありません。 また、これらの神社には、もう一つ重要な祭祀の対象物に縄文時代から残るとされる「丸木舟」があり、伝承のひとつには、海から無人の丸木舟が流れ着き、この地の船々の周りをかわしてスイスイと進み、その晩に、力を込めるような人々のさんざめき声とともに丸木舟が船越神社まで上陸したと言い伝えられています。言い伝えの中では、その舟は、洲崎神社の神石と同じく、竜宮からの使いであるとされています。 別の言い伝えでは、洞窟に住む大蛇を相模からきた神様が洞窟内に住む大蛇を退治したといった話、洞窟に迷い込んだ犬が南房総市白浜町の滝口村から現れたといった話等、不思議な言い伝えが数多くあります。

考古学の世界では、この地域の海食洞穴からは丸木舟を棺として葬むられた(舟棺)、国内でもとても珍しい古墳時代の遺跡が見つかっています。また、この丸木舟の存在は、かの水戸黄門様による江戸時代の文献にも記録が残っています。

この神社のご祭神には、日本神話の日向三代の章に登場する天孫「山幸彦」の妻となった、海人族の長の娘「豊玉姫命」が祀られています。 房州布良に投宿し、傑作「海の幸」を残した明治時代の洋画家・青木繁のもう一つの傑作「わだつみのいろこの宮」に描かれている女性がこの豊玉姫です。 もしかしたら、青木繁は、この「ナタギリ神社」でその着想を得たのかも、といった想像も禁じえません。

館山市のその他のパワースポット

その他館山市には、行基が開いたとされる「崖観音」、坂東観音巡礼の結願寺である「那古寺」、かつて全国でも数少ない神郡(神社が直接領地から税を徴収できる地域)に定められた「安房神社」、弘法大師(空海)が開いたとされる関東産大厄除三大師の「小塚大使」、同じく弘法大師が掘ったいわれる「塩井戸」等、多くの興味深いパワースポットがあります。

植生 -洲崎神社自然林とマテバシイの大群生-

館山市西岬は冷温帯にさしかかる関東地方において、南方から続く照葉樹林(常緑広葉樹)帯のまとまった植生が見られる極めて特殊な自然の植生を持ちます。房総半島中部以北の地域で常緑照葉樹の大規模な群落が見られないことから、このエリアが常緑広葉樹林の北限とされています。

生業を海とともにする民からの信仰が厚い洲崎神社が鎮座する御手洗山は、鎮守の森として保存されてきたことから、自然のままの姿を残す珍しい自然林として、千葉県の自然記念物に登録されています。 そのほか、もともと館山湾に浮かぶ島で、現在砂州で陸地と繋がっている沖ノ島にも、手付かずの豊かな自然林が残っています。

そしてもうひとつ、南房総の特徴的な植生として、マテバシイの大群生があります。マテバシイは、幾重にも枝分かれし、こんもりとした樹冠を特徴的などんぐりをつける常緑広葉樹です。九州以南が自生域と考えられ、東南アジアの地域でもっともよく育つといわれていますが、不思議と南房総では、いたるところにこの南方の樹木が生い茂っています。これは、江戸時代から化石燃料が発達する前までの時期にかけて、首都での大量の薪炭での利用や、鰹節の燻乾や海苔の養殖棚等での産業利用、またその生い茂った葉により、戦時中に軍事施設を隠すためにも利用されたりと、その恵みを利用しようと、人為的に植林されたものと考えられています。その多くは比較的近代に植林されたものでありますが、南房総の縄文遺跡から歯型のついたマテバシイのどんぐりが発掘されていることから、古い時代からすでにこの地に持ち込まれていたことを物語っています。海岸の急峻な段丘にしっかりと根付く性質から、西岬の海沿いの傾斜にも多く植生しています。

戦争遺産 -東京湾要塞、南房総・館山に遺された戦跡-

館山市・西岬地区には、数多くの戦争遺跡があります。 それは、幕末の時代から太平洋戦争時まで、東京湾を守るためこの地域が果たしてきた役割を物語るものです。

幕末の時代、房総半島や三浦半島の要所に、お台場と呼ばれる砲台が数多く設置して外国の軍艦に備えました。 東京湾の門として海運の要衝であった洲崎の、現在「洲崎灯台」のある岬には、「お台場」の地区名がのこり、現在も石垣が名残として残ります。その後、明治に入ると、その整備は進み、浦賀水道に浮かぶ小島に海上要塞である海保も設置され、東京湾内の軍事施設は「東京湾要塞」と称され、整備されてきました。

太平洋戦争時には、迷路のような巨大地下要塞「赤山壕」(館山市宮城、Googleストリートビューで内部を閲覧できます)、岬そのものが要塞であった南房総市富浦町の「大房岬砲台」といった軍事施設が建設され、いまもその姿をとどめています。西岬地区内にも、戦闘機の格納庫である掩体壕や砲台、各種の格納庫等が、なにげない形で数多く残っています。 西岬にある素晴らしい眺めの名山「(房の)大山」の登山コース途中には、砲台やトンネル、格納庫等の軍事施設が残されています。

あまり知られていないことですが、太平洋戦争の降伏時に、館山は沖縄以外では唯一の「直接軍政」がしかれ、夜間の外出禁止など市民の行動も米軍の管理下におかれました。その期間はわずか4日間で解除されたため、その事実は公式な記録には残されませんでした。

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